2008年02月10日

坂口安吾「土の中からの話」中の結城哀草果の取扱

 結城哀草果に関してネット上のソースがないかとうろうろするうちに引っ掛かったのが青空文庫所収の表記だった。なんとも便利な話で早速参照に及ぶとー

【引用開始】
 日本歴史を動かしたものは農民だと云っても当の農民は納得しないに相違なく、農民個人というものはただ虐(しいた)げられており、娘や女房を売り、はては自分の身体まで牛馬なみに売りにだすような悲しい思いをしていることの方が多いのだが、その農民の個人々々の損得観念、損得勘定の合計が日本の歴史を動かしている。いじめられ通しの農民には、上からの虐待に応ずるには法規の目をくぐるという狡猾(こうかつ)の手しか対処の法がないので、自分が悪いことをしても、俺が悪いのではない、人が悪くさせるのだと言う。何でも人のせいにして、自主的に考え、自分で責任をとるという考え方が欠けており、だまされた、とか、だまされるな、と云って、思考の中心が自我になく、その代り、いわば思考の中心点が自我の「損得」に存している。自分の損得がだまされたり、だまされなかったり、得になるものは良く、損になるものは悪い。損得の鬼だ。これが奈良朝の昔から今に至る一貫した農村の性格だ。

 いつだったか、結城哀草果氏の随筆で読んだ話だが、氏の村のAという農民が山へ仕事に行くと林の中に誰だか首をくくってブラ下っているものがある。別に心にもとめず一日の仕事を終えて帰ってくると、その翌日だか何日か後だか今度はBという農民がやっぱり山へ仕事に行って例のぶら下った首くくりを見てこれも気にもとめず一日の仕事を終えて帰ってくる。ある日二人が会って、山の仕事の話をしているうちに、ふと首くくりを思いだして、ああ、そうそうあんたもあれを見たのか、と語りあって、又、それなり忘れてしまったという。結城哀草果氏は、この話を、農民が世事にこだわらず、天地自然にとけこんで、のんびりしている例として、又、そういう思想的な扱い方をしているのである。

 農村の文化人というものは、全国おしなべて大概こういう突拍子もない考え方で農村を愛しているのが普通で、自分自身農村自身の悪に就ては生来の色盲で、そして農村は淳朴(じゅんぼく)だなどと云って、疑ることなどは金輪際ない。
【引用終了】

 上記された結城哀草果の随筆なるものが特定できず、安吾の読み方に誤解がないか検証できないが、「農民が世事にこだわらず、天地自然にとけこんで、のんびりしている」と哀草果が見たというのは俄に承服しがたい。

 たとえば
☆平和なる山村と見るは愚にて争を重ねてそのつど飲酒す

 という認識にそれは直結しまい。

 或は哀草果の随筆『村里生活記』にある「大晦日の火災」ではこんな観察をしている。
【引用開始】
(前略)
全焼に罹った朝吉一家は着のみ着のままで、隣家の空な厩を借り莚を敷いて正月を迎えた。この悲惨な火災に同情した近村の人達は米、藁、衣類等を背負って来て厩にいる朝吉に恵んだ。

「朝の野郎は火事を出して、村を騒がした揚句、生れてからない裕福な正月をしてけつかる」と言って部落の貧民だちが羨みながら噂をした。

牛馬の仲買周旋を業としている朝吉は火災に罹って、厩に寝起する境遇になったが、米、衣類等の同情を受けたので、部落の貧民達の羨望の的となったのである。

朝吉は年四十五歳・妻三十九歳、十二歳を頭に四人の児があって、年収百五十円の生活をしている。一カ月十二円五十銭・一日四十一銭強の割である。つまり四十一銭強の金が一家六人の口を一日糊する生活費である。
【引用終了】
 こういう観察をする哀草果に安吾の所見が当て嵌まると思えようか。

 結城哀草果の弁護側に立った話になってしまったが、安吾説を全面否定できる訳でもない。安吾の読んだ随筆が特定できぬ以上、その随筆で哀草果が安吾の主張通りに書いている可能性を排除できぬからだ。

 恐らく既に研究されたに違いない哀草果の農民観で答えは出ていようが、初学者の素朴な疑問として敢えて呈示しておく。(いわば短歌鑑賞の番外編だ)。
posted by まろにえ at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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