2012年10月17日

東京神田のニコライ堂(ロシア神学校)はスパイ養成機関でもあった

 東京に縁のある人にはニコライ堂は馴染みの名所のひとつだろう。

<ニコライ-どう ―だう 【―堂】
東京都千代田区神田駿河台にある日本ハリストス正教会復活大聖堂の通称。ニコライが1891年(明治24)に建立。関東大震災で被災したが1929年(昭和4)に再建された。三省堂大辞泉
−もので、ある種の懐かしさを伴うと同時に詩情さえ感じるだろう。

 だが、ここのロシア神学校はスパイ養成校でもあった、「神学校に通っていた生徒たちの名前や消息は、今も明らかになっていません。しかし神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2〜3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになりました」とロシアの声日本語版が三回にわたって伝えた。
題して−
@日本におけるロシア神学校 − スパイの学校でしたか第1回目 ワシリー・オシェプコフ
A             〃           第2回目  イシドラ・ニズナイコ
B             〃           第3回目 ウラジーミル・プレシャコフ

<彼らはロシアと日本という2つの民族、国家のはざまに生き、その運命は、個人の利害、そして複数の国の特務機関の利害に大きく動かされました。日露戦争、第1次世界大戦、ロシア内戦、鉄道建設の開始・・・

 彼らについては多くの謎が残され、多くが悲劇的な最後を遂げたにも拘らず、その名前さえ全貌が掴めていない。 
 1879年にニコライ大修道院長の尽力によって開校したロシア神学校は、将来のロシア正教の聖職者を育てるために、日本の子供たちに教育を行うというものだったが、1902年8月、ロシア軍からの指令により、ロシア軍のための通訳を養成するために、ハルビンやハバロフスクの少年たちが、神学校に送られるようになった。やがて神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2〜3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになった。「生徒たちのカリキュラムには、地理、日本および極東の歴史、文学、文法、読み書き、新聞記事の翻訳、日本語と漢文の書道など、日本の学校で学ぶすべての教科に加え、神学、ロシア語、ロシア文学、世界史が組み込まれて」いた。

 日露戦争の敗戦の重要な原因のひとつとして、日本語、中国語、韓国語といった東洋言語の通訳が深刻な不足状態にあったからというものがあって、それを背景にロシア神学校への少年の送り込みが始まったと言う。

 各人の詳細は上記サイトに譲るが、略歴を整理してみる。
@ワシリー・オシェプコフ

 1913年 神学校卒業。ハルビンにある外アムール軍管区の諜報機関で、通訳として働く。
 1914年 ウラジオストックで学生時代に鍛えた柔道の道場を開く。
 1923年 コードネーム「DD」でソ連軍に協力。サハリンで日本の兵士向けの映画を上映しながら、日本      軍の配置に関する貴重なデータなどを収集し、報告した。
 1925年 再来日し不法滞在する。労働者農民赤軍の第4司令部に所属。
 1926年 帰国命令。裏切り嫌疑で数年間シベリア送りに。
 1937年 日本のスパイ容疑で逮捕。同月収監されたブトゥイルスカヤ刑務所で狭心症の発作のため死亡。

Aイシドラ・ニズナイコ

 1906年 外アムール国境警備局からの奨学生という形で神学校に入学。
 1912年 優秀な成績で神学校を卒業したニズナイコはハルビンに戻り、国境警備局の通訳として長年勤務      した。
 1918年 東清鉄道国境警備隊の主席通訳に任命された。日本人について、またシベリアにおける日本人の      動向についての極秘情報を収集した。活動はかなり危険なもので、必要な情報はマッチ箱に暗号で      書きしるし、家に帰ってそれを解読し、報告レポートを作成した。
 1941年 拠点を上海に移す。日本語の教科書を出版する。
 1945年 満州赤軍に入隊、ウォトカおよびワイン生産連合書記になる。一時、あらぬ嫌疑を受けてハルビ      ンの軍事諜報機関に逮捕されたが、直ぐに釈放された。
 
Bウラジーミル・プレシャコフ

 1906年 ロシア神学校へ送られる。
 1912年 優秀な成績で神学校を卒業し、その後2年間にわたって外アムール軍管区本部の通訳として勤務      した。
 1914年 第一次世界大戦勃発とともに中尉として前線に。
 1917年 ロシア・ボルシェビキ革命 露帝国崩壊。
 1918年 故郷ハルビンに向け送還されたが、途中のオムスクにしか達しなかった。コルチャーク大将が打      ち立てた反ボリシェヴィキ政府(白軍)の諜報将校となり、対日諜報活動を行った。日本軍のシベ      リア出兵の年だ。
 1920年 コルチャーク敗北(1919年)の後、経緯は不明だが、日本軍歩兵第11連隊の本庄繁隊長の      通訳となった。日本軍撤退の後、ハルビンを経由してウラジオストクに移動したが、そこでソ連政      権の誕生を迎えた。
 1923年 ソ連消費者協会の通訳として函館に赴任。
 1928年 ふたたびハルビンに戻り、1935年(日本への鉄道譲渡)まで東清鉄道で働いた。
<神学校の最初の卒業生だったウラジーミル・プレシャコフとオシェプコフは非常に近しい親友のような関係だった。1923年5月以降、プレシャコフは諜報活動に協力するようになり、オシェプコフから教えてもらった函館の消費者協会で働くようになった。つまりプレシャコフを消費者協会につないだのはオシェプコフだったのだ
 ーと言う。

***
 スパイ活動は公式には存在しないことになっているが、実際がそうでないのは周知の通りだ。スパイ活動のカモフラージュに使われる身分は、学者、評論家、ジャーナリスト、語学学校教師、通商団体、NGO、大使/公使館職員、留学生、…と数多い。駐在大使館が司令塔になる場合がある。要職にある人は心得ておきたい。 

 勿論、日本も諜報活動もどきをやっている。
posted by 三間堀 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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