2010年10月30日

日本人の英語信仰(『お言葉ですが』5)

 高島先生に言わせると、日本人(特に知識人)の英語能力が一番高かったのは明治十年代で明治も半ば頃になるとぐんと落ちたとなる。文明開化で学問、技術,産業、法律すべてを西洋から学ばざるを得ないが、学校は作っても教えられる日本人はいない。教師はお雇い外人であり、授業は英語だったからだ。それが半ば頃には西洋の学問を修めた日本人教師が育って、日本語で教えるようになったからだ。

 高島先生曰く、「知識人が自国語よりも英語の方が便利だというのは植民地的風景である」。その通り!

 ところが、この半ば頃から英語のために英語を学ぶ人たちが多数出現した。「実際的な目的がないのだからこれはもう一種の信仰である」。「英語の上達は禅の悟りみたいなもので、自在にあやつれるようになると人間が一皮むけて、ふつうの日本人より上等の日本人に生まれ変われるのである」。

 英語圏の国に行けば子どもでも英語を喋る。日本人が日本語を喋るのと同じだ。「ところが日本人は,英語は自分たちが日常話している日本語なんかとは格ちがいの高級な言語だと思い、英語の勉強は学問だと思っている」。

***

 国文法を禄に勉強しない人が英文法を有難がって刻苦勉励する、異様な姿だ。言うまでもないが、日本語をよく知らない人が外国語を学んでも理解が浅薄なのは周知の事実だ。ビジネス世界でも海外駐在員とか国際部とかの部門に誰を選ぶか、で英語の出来る人間を選んだのは初期の話。ある程度英語力があれば、今では仕事の出来るヒトを優先して選ぶようになった。英文卒を使ってもそれだけでは仕事が出来ないと知ったからだ。コミュニケーションは大事だが、中身がもっと肝心なのだ。

 昔ある法律的マターでサイマルのプロ通訳を使う機会があったが、こちらの使う日本語を正確に理解して英訳しているとは思えぬ事柄があって、文句を言った経験がある。在米生活の長い日本人女性だが、日本語に強くなかったようだ。

 日本語に歴史の中で織りなされて来た微妙なアヤがあるように、当然、英語にもそれがある。辞書的字義(訳語)を繋ぎ合わせるだけでは不足なのだ。英語と言っても、国によってバックグラウンドが違い、単語の負う陰翳が違う。暗黙に響くものまで理解を到達させるのは至難なのだ。

 こうした議論は英語に限らない。おフランス語やらドイツ語など、漢詩漢文を通じた中国語、あるいは特殊だがサンスクリット語(印欧語であることが拍車をかける)などにも当てはまるかも知れない。フランス語を縦書きにしたような文学とか評論が尊敬を集めたりする不思議もある。

 こう書くと如何にも国粋主義者に見えるかも知れない。だが私は「道具としての外国語」学習には大いに賛成であり、たとえば英語で論文を書けない学者などもってのほかだと思っている。自虐的だがタイ語の出来ないタイ国居住者も然りだ。しかし英語信仰の類いは全く願い下げなのだ。
posted by まろにえ at 08:16| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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