2009年10月24日

数々の苦難を話す人の口に入れられてゆく寿司は端から 吉口枝里

 黒田英雄の安輝素日記/ 1425 「塔」10月号「陽の当たらない名歌選」2から幾つか。

☆数々の苦難を話す人の口に入れられてゆく寿司は端から 吉口枝里

 自棄食いだろうか。心のふさがりを晴らすには他人に思いを吐き出すことと只管食べることは日常繰り返されているだろうストレス発散法。歌は女同士の場面だろうか。

 苦難が口を重くし食欲を殺ぐことだってあるだろうに。。。そんな深刻な話でないってことかな。

☆ひんがしの山にわきゆく朝霧のいつも決まりしかたちのあらず 中島扶美恵

 最近小旅行したナコンナーヨク県で走った山間の道、低い山だが中腹の樹林から白く立ち昇るものがあった。雲か霧かカミサンと議論になった。霧は薄衣のように広がり行くもの、雲は固まって形をなすものと思い込む私は雲と主張したが、カミサンは譲らず霧と言い張った。雲にせよ霧にせよ、水の話だから、水掛け論だった。

☆突然に音たてガレージの上を歩くカラスの足裏黒色ならず 北村英子

 小さな発見の喜びを詠ったもの。浅い感動だから、メモ代りだろう。

☆生きている玉子をつるり飲んで立つ蒼のつめたいあじさいのまえ 大内奈々

 上下(かみしも)の繋がりがよく分からない。あじさいを見る行為に「玉子をつるり飲」む拍子付けが必要なのか。それとも何をするにしても「玉子をつるり飲」む癖があるのか。食べることが行動の切っ掛けになるご仁なのかも知れない。「つるり」「蒼」「つめたい」感覚的言葉が並ぶ。ナンセンス歌かも。

☆朝方に捨てた我が身を夕暮れに拾って帰る橋のなかほど 紺屋四郎

 自分を捨てて通勤し、家路の途中で自分に戻る。橋が私性と勤め人との分岐点、仕事は自分でなくなる異世界だ。ありふれた話ではあるが、「拾って帰る」が面白い。

☆「いつぱしのうたごころ」とふ弱毒のウィルスをいさぎよく灼きころす 謎彦

 「いつぱしのうたごころ」とは手慣れた段階で発生する自惚れ、慢心のことか。これで好いのだ、「いっぱし」と自負することで、歌境が伸び悩む。創作の壁にぶつかった時、自らの慢心こそその原因と気付いた、それをウイルスに見立て「灼きころす」と言うのだ。だが、弱毒性であるかは疑わしい。小成に浸ってそれ以上伸びない例が少なくないように思われるし、禅の世界では半解(なまわかり)の増上慢を「野狐禅(やこぜん)」と呼び、業病扱いだからだ。
posted by まろにえ at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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