2009年10月22日

新川和江:口 (「人体詩抄」より)

 新川和江詩集(ハルキ文庫)の中にある「人体詩抄・抄」、そのひとつが「口」という詩だ。



鳥は羽で数えられる
魚は尾で数えられる
口で数えられる 人間の口のせつなさ

(中略)

まだ片言でも
ひとこと ひとことが
花びらみたいにいい匂いをたてるのは
おかあさんのおっぱいしか咥(くわ)えたことのない
赤ちゃんのくちびるだけです


 我が家に棲息或は去来する女たちの生活を見て常日頃思っていたことがあった。
彼女らの人生の目的は結局「口」でないかと。
食べる、喋る為の「口」だ。
敢えてひとつに絞ればお喋りする為の「口」の方だ。

 実によく喋る、しかもタイ女は地声が大きいから、その騒音度が極めて高い。
TVの音声さえかき消し、こちらはオチオチTVも見られない。
我が書斎に隣接する居間で女三人寄ったら大変だ。

 お喋りには食べ物が付き物で、こちらも実によく食べる。
旨い、不味い、あそこの店はどうのこうのと喧しい。
表面食い物情報の交換だが、だが情報交換は口実に過ぎない。
純粋に喋りたいのであって、食べ物であれ何であれ、要は喋る材料に過ぎない。

 お喋りは対面だけと限らない、ケータイも大好きだ。
勿論、話の内容は九割方他愛もない。
電話が来るのは他の人に存在を認められたことだから、飛び上がる程嬉しい。
目の前の人より大切にする。
こちらでは「失礼します」という言葉さえ掛けずに電話に夢中になる。
目の前の人は突如手持ち無沙汰になる。
日本なら「ふざけるな」と怒鳴り出すところだが、タイ国では違う。
適当に無柳を慰めて文句を言わない。


 レストランに行くのも、ファッションに凝るのも、
子供も、亭主も、友人も、エトセトラ、エトセトラ
生活全般が結局、お喋りの材料作りに過ぎないかのようだ。


 こんな風に思いなしてある時女たちの集う居間を覗き見たら
そこには大きな唇だけが浮き、ブラックホールのような空洞から
轟々と言葉が連射されていた。
それは時に相手を傷つける鋭利な斧になって飛び交っていた。

 
タグ: 新川和江
posted by まろにえ at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/130925905
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック