黒田 三郎<くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26日 - 1980年(昭和55年)1月8日>という詩人がいた。
<広島県呉市出身。東京大学経済学部卒業。戦時中、会社から派遣されたり現地召集で南洋の島々で過ごした。戦後、NHKに入社、1947年、詩誌「荒地」創刊に参加し、詩や評論を発表する。結核の闘病を続けながら、市民の生活に根ざした感情を平明な言葉で描いた。昭和30年(1955年)には最初の詩集『ひとりの女に』でH氏賞を受賞。1969年、NHKを退職、文筆活動に専念する。詩集には、長女のユリとの日常生活をつづる詩集「小さなユリと」、『失はれた墓碑銘』『もっと高く』など、評論集『内部と外部の世界』などがある。1975年から詩人会議運営委員長をつとめた>(ウィキペディア)。
表記はそんな彼の詩だ、闘病通院途次を詠んだものだ。
【引用開始】
石神井公園の落葉をふんで
蹌踉として今日も病院へゆく
ボート池のほとりには
もう釣り糸をたれるひともなく
冬は深まりつつある
昨日と同じボート池を眺め
今日も同じことを考える
「なすべきことは何ひとつできず」
おめおめ無駄に生きていて
ものを書く後めたさ
「書いたって何ひとつ
もとにかえりはしない」
書こうと思う十分の一も
書くことのできぬ口惜しさ
「書いたって誰ひとり
なぐさめることもできぬ」
(以下略)
【引用終了】
この詩が目に留まったのは大した理由ではない。通っていた都立高校が石神井(しゃくじい)公園の側にあったことと一時期西部池袋線石神井公園駅を最寄り駅とした場所に住まい、しばしば公園を利用したからだ。
石神井公園という名前を初めて目にしたのは豊島区巣鴨で通学していた小学校の、郊外写生図画の展示を見た時で、ものの見事にその地名が読めなかった。いしがみい公園?難しすぎた。それ故今に至るもその記憶が鮮明だ(こんな記憶力は箸のつっかえ棒にもなりゃしないが)。
黒田三郎が恐らく実際に通ったボート池にもよく出向いた。私が大学生の頃、懇ろな関係になった恋人との手軽なデートコースだった。そこは近隣住民だけでなく広く都民の憩いの場でもあった。池の側には豪邸がある一方でお茶処があった。かつて此所は郊外別荘地だったからだ。大金持ちの家の前でボートに興じ、釣りを楽しむ庶民がいた。駅から商店街を抜けてたどり着く公園前の道は狭く、その行き違いが大変で特別その為の交通整理員がいた。バスが苦しげに身を縮めて通る道は公園を過ぎてもなお狭く、あちこちにすれ違い用待避地が設けられていた。いかにも自然発生した町並み、道路だった。
その分、緑の深い公園は四季折々の移り変わりで我々を楽しませた。上記の詩で黒田の描く冬の光景は実写に近いと思う。そして枯れ葉散る池沿いの小道は独りで歩めば自ずと内省的な気分になる。木枯らしになる落ち葉の音が背景曲だ。
健常人ですらそうだから、結核を病んだ黒田が<「なすべきことは何ひとつできず」 おめおめ無駄に生きていて ものを書く後めたさ>と書き付けるのもよく分かる。駅前商店街の書店にW・ライヒ『性の革命』が並べられていた頃、私も将来イメージが掴めずに同じような感慨に囚われたことがあった。
吉祥寺にあった井の頭公園のことを学友は「寂しい大学生の行く所」と称していたが、此所石神井公園も亦「寂しい人間の行く所」だったのかも知れない。
2008年12月18日
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