寺山は詩歌壇における結社誌や同人誌発行の意義を「もはや一つのメディアでむすばれた作者と読者の関係などではなくて『相互慰謝』ということに絞られてしまっているようである。それは新興宗教の団体よりも、もっと味気ない感傷の福祉団体なのだ」と嘆じた。そして彼らには「救済」へのはげしい願望も「変革」のための身をよじるような苦悩もない、と断じた。「それはいかなる世界へ向っても、決してひらくことのない、ほとんど絶望的なディスコミュニケーションの牢獄である」と糾弾する。
結社誌「アララギ」、詩の同人誌「凶区」を取り上げて寺山は自説の根拠を拾って行く。その詳しい過程は省略(同書を読まれたい)するが、後者の日録への偏愛を断罪してこう言う。「感情の記録はない。なぜなら、事柄は連帯できるが、感情や欲望は連帯できがたいからである」。そして「もっとマジメに自分の事件を持ち寄り、ミルクつきホットドッグ100円や『座頭市二段切り』の間に、自慰やエゴイスティックな個人的感情のことまで報告しなければ、こうした<日録>の意味はない」と言う。
寺山の主張のように日録に記録することには実は勇気が要る。精神のストリップ、防備なしの自我を曝け出すことになるからだ。人一倍感受性が強く自分及び他人や外界への反応が過敏な人々だ。それはガラス製の壊れやすい自我でもあって、些細な指摘にも傷ついてしまう。だがそれの出来ない詩人の言葉、詩とはなんだろうか。
寺山は「詩はあくまで『自分のことば』でなければならない」、「たそがれのヒューマニズムよりも真昼のエゴイズムの方がはるかに重要だ」と勧める。私は詩人でないが、そうなのだと思う。世界をつかみ取る、世界を新しく生きるとはきっと血みどろの営為なのだ。それを通じてのみ「自分の言葉」で詩を書き記すことが出来るのだろう。もどきはそう難しくない、だがそれは所詮上滑りする。不思議と「もどき」の判定は出来るものだ。それに感想を求められた場合の決まり文句はこうだろう。「お上手ですね」。


